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トメアスの歴史

トメアスーの歴史はアマゾンにおける日本人の移住の歴史の始まりを意味します。現在にいたるまでの遍歴をここに紹介します。

第一回移民と南米拓殖株式会社
第二次世界大戦とトメアスー
ピメンタ・ド・ヘイノ
戦後移民と第二トメアスー建設
ピメンタ・病害・農業多角化
アグロフォレストリーシステム構築


第一回移民と南米拓殖株式会社
  そもそも南米ブラジル・アマゾン地方への移民の始まりは、1925年にパラー州知事に就任したジョニジオ・ベンテス氏が前年に初代日本国在伯大使、田付七太氏と会見したことに始まります。当時の田付大使は1923年に連邦下院に提出された黄色人入国制限法案、これに関連した学会の一部の同案賛成決議案より、サンパウロ州での農業実績の高い日本人が他州からのやっかみを買っていると分析、他州への入植を模索していました。一方勤勉な日本人を評価していたベンデス氏は田付大使にパラー州入植のための土地選定の権利を与えると申し出、調査団が派遣されることになりました。コンデ・コマ(前田光世)氏の案内役で行われた調査及びベンデス氏との会見の結果は排日気運の高まる南伯より、今後日本人のアマゾン移住を促進すべく50万町歩の土地の無償譲与を行おうというものでした。

 田付大使はこの州知事の申し出を日本政府に報告、当時日本国首相であった田中義一氏は「新移住事業会社」設立を指示、外務省と産業界でその推進委員会が設けられました。当時の日本の現状から考えて政府はぜひとも利用したい機会だと考えてはいたものの、これまで入植歴のないアマゾンへ簡単に日本人を送るわけにはいきません。そこでさらに調査団を派遣する必要があり、ブラジルにおける活動が盛んであった鐘淵紡績鰍ノ打診、同社総会の決議をもって調査費の援助を得たのです。こうして鐘紡の重役であった福原八郎を団長とする調査団が1926年にパラー州へわたり、その報告書が外務省へ渡りました。

 ベンテス氏はその後2年間の約束で100万町歩の土地を提供すると約束しました。調査報告を受け、このうちうち60万町歩をアカラー州(現在のトメアスー郡)に獲得、鐘紡鰍背景として1928年に設立された南米拓殖梶i現地社名: コンパニア・ニッポニカ Companhia Niponica de Plantação da Brasil S/A)の管轄下として、同社社長に任命された福原八郎に託したのです。こうして日本国内ではアマゾン地方への移住者を募ることとなりました。

  その結果、1929年に第一回移民として43家族、単独渡航者8名を含む189名がモンテビデオ丸で神戸港よりアマゾンへ向かいました。入植者は南米拓殖現地機関のコンパニア・ニッポニカへ栽培した米を売り、一方で同社の研究開発するアマゾンに適した作物-主力商品とみなされていた永年作物のカカオの栽培に乗り出す予定でした。ところがこの計画は芳しく進まず、またリオデジャネイロから送られてきた高いお米で食いつないで生産した米は供給過多で値崩れを起こし、入植者は不安・不満を募らせていきました。

 こうした苦境を打破すべくアカラ野菜組合(現トメアスー総合農業共同組合)が結成され、200kmはなれたベレーンまで一昼夜かけて野菜や米を運び収入を得たのです。組合の活躍により、当時野菜をあまり食べる習慣のなかったベレーンの人々の食生活に少なからずの影響を与えたトメアスーの移住者でしたが、それでも経済的な苦境は強いられたのです。

 農民に奨励する作物の研究がなかなか実を結ばない中、施設建設費等の回収がうまくいかないコンパニア・ニッポニカは本社の南米拓殖より縮小改革の命令が下されます。その内容は直営農場の閉鎖、コロノ制度の解消、そして農業試験場の廃止という内容でした。

  第二回移民(サントス丸、1929年出港)、第三回移民(ブエノス・アイレス丸、1930年)と日本からの移住が続く中、経済的苦境に加えてマラリアの蔓延のため、トメアスーから出て行く人々も多く現れました。第四回移民になるとトメアスーの悲惨な現状を聞くにつけ全員がこの地を離れるに至ったのです。南米拓殖が植民地事業を断念した1935年から1942年までの入植者352家族、2,104名のうち総計276家族、1,603名がこの土地を離れました。結局、経済的に退耕、移住の不可能な人々、家族構成の悪い人(女性子供の多い家族など)等、96家族483名のみががアマゾン開拓の捨石となってこの地に骨を埋めようと決心したのです。


第二次世界大戦とトメアスー
  折りしもこれを追ったのが1942年の国交断絶です。家宅捜査、日本語・文字使用の文献の没収、3人以上の集会の禁止を命じられた日本人を苦境にさらしたのは,ベレン市沖でドイツ潜水艦がプラジル商戦を撃沈した事件です。この事件によって地域の反日感情に火がともり、ベレン市に住む日本人はすべて焼き討ちにあい着のみ着のまま脱出しなければなりませんでした。アマゾン地域の枢軸国(日独伊)移民の生命の危険を察したブラジル政府はパラ-州政府に命じ、アカラ植民地(現在のトメアスー)を収容所としてこれらの移民を軟禁しました。当時アカラ野菜組合から名称を変更したアカラ産業組合も州の管理下に置かれその財産を没収され、活動停止を余儀なくされたのです。1954年に発行されたトメアスー総合農業共同組合の25周年アルバムの中ではその当時について“一般に当時を「捕虜時代」と通称している。”とかかれています。

  終戦の後、敗戦の落胆と同時に「海外から日本の再建の一端を担う」使命感、そして終戦の解放感を複雑に交えつつも、活動停止のアカラ産業組合を立て直さなければ日系人は生活していけません。若く熱意を持ったトメアスーの農民15名がそんな中、1946年に「アカラ農民同士会」を結成し、生産物の販売権などの回復を州に訴えていきました。べレーンまでの水路で自らが商品を運ぶべく素人作りの木造船「ウニベルサル号」を建設し、流通網も確保したのです。こうして再び組合活動が動き出し、1947年には母国の戦災救援金として日本への送金も行うほどになりました。1949年には公認産業組合として連邦政府に正式に登録、その名をトメアス-総合農業協同組合(Cooperativa Agricola Místa de Tomé-Açu)と改め、本格的な組合機構として始動したのです。トメアス-総合農業共同組合は現在も胡椒、カカオの他果汁生産を行う組合組織としてトメアスーで活動しています。

ピメンタ・ド・ヘイノ
  コンパニア・ニッポニカの当初の計画、カカオ栽培がうまくいかない一方で、その他様々な作物の研究が試みられていました。そのうちのひとつ、ピメンタ・ド・ヘイノ(胡椒)は1933年に当時の南米拓殖株式会社の職員であった臼井牧之助氏が移民監督官としてアマゾンに赴く途中、シンガポールで偶然見つけ購入したものです。20本の苗に船の中で水をやり、トメアスーにあった試験場へ運んではきたものの、試験場で根付いたのはわずか2本でした。ポルトガル語でピメンタ・ド・ヘイノとは「唐辛子の王様」という意味です。

  南米拓殖撤退に伴い1935年にこの試験場が閉鎖されましたが、この試験用の僅か2本の胡椒の木からの挿木苗各30本が2人の農家に譲り渡されました。戦争の機運が高まる中胡椒の輸入が途絶えたため、胡椒のブラジル国内外市場は着々と価格を上げていく中、植えて2,3年で収穫できるこの作物を益々多くの農業者が植えることになったのです。わずか2本の苗から始まったトメアスーの胡椒、1938年度の組合の生産高は70キロでしたが15年後の1953年には650トンという驚異的な生産量増加が見られます。皮肉にも第二次世界大戦はトメアスーの日本人にアマゾンにて敵国者として扱われながら祖国日本への郷愁と苦難、そしてその上に築かれた農業での劇的な成功という矛盾した2面をもたらしたのです。

戦後移民と第二トメアスー建設
  日本の敗戦後、トメアスーへ移住する人々の数は再び増えていきました。1953年アメリカ丸での27家族をはじめとして1960年までに呼寄せ移民として130余りの家族が新たにトメアスーの住民となったのです。一方引き続き新たな移住者を受け入れていたトメアスーでは1959年の移住30周年を迎えるにあたり、ひとつは記念事業としての第2の村づくりを目的とし、もう一つは母国日本の移住政策に協力したいとの願いから、「トメアスー第二植民地建設委員会」を発足しました。外務省移住局長が1959年にトメアスーを来訪した際、ベレーン総領事、JAMIC移住振興会社(現在の国際協力事業団JICA)及び農業組合幹部が会談し、パラー州より確約をつけ、新設3万800ヘクタールに日系人、非日系ブラジル人の800家族入植が計画される運びとなったのです。

ピメンタ・病害・農業多角化
  1935年から農家ではじめられていた胡椒は順調に国内外の市場を広めていったものの、常にそうであったわけではありません。何度かの高値、安値を繰り返しつつもトメアスーは1960年代後半までその胡椒生産高がブラジル全国の40%を超えていました。こうした状況にかげりを見せたのが60年代に入って深刻な問題となったフザリウム菌による根腐病です。この病気の出現により胡椒の寿命は短くなりました。農民の95%以上が胡椒に頼っていた50年代初頭にトメアスー総合農業共同組合では単作と市場価格の変動のリスクを避けるため、農業の多角化を促進してはいましたが、病害の出現が加わり益々その必要に迫られる結果となったのです。

  様々な試行錯誤の結果、当時の組合理事であった坂口陞氏がピメンタの代替作物として提案したカカオの普及が始まったのは1974年の深刻な水害がさらにピメンタ病害に拍車をかけ生産に大きな打撃を与えたからです。農業者はそれまで、病気が出るとわかっていてもピメンタにこだわっていましたが、年々寿命が短くなる、結実が少ない、価格が下がる、そしてこの水害ではどうしようもありません。それまでピメンタ一本で収入を得ていた農家の人々はカカオを植え始めるようになりました。その矢先、1975年にカカオの価格が高騰し、70年代はカカオ景気のおかげで胡椒で生じた負債から免れることができたのです。

  80年代に入ると、70年代に経験した価格変動と病気、災害の恐ろしいリスクから農業者を守ろうと、トメアスー総合農業共同組合では移住地再建10ヵ年計画を策定しました。この計画ではカカオ、デンデ椰子、ゴムの木、パッションフルーツを胡椒に加えた主幹作物とし、組合員農業者の安定した収入を目的としました。こうして単作農業から混植への脱皮を図ったトメアスーですが、決して大きな成功を収めたわけではありません。1984年より胡椒の価格が再び上昇したものの、その他の作物に関しては、価格が低く、生産性も低かったため、多くの農業者が日本へ「出稼ぎ」に出るようになりました。この10ヵ年計画の間、トメアスーの農業経営者の所得は4000レアルから13,000レアルへ上昇したものの、実はこの差額はほとんどが出稼ぎから得られた収入であり、農業から得た収入はほとんど変わっていなかったのです。


アグロフォレストリーシステム構築
  再建10ヵ年計画の終了年1995年ごろには出稼ぎの数はトメアスーの日系人人口の1/5を占めるようになっていました。何十年もかけて作り上げてきた開拓の地、トメアスーから若い人々がいなくなってしまうと、先駆者の築きあげたものが消え去ってしまう--トメアスーの出稼ぎ問題、そして後継者問題は過去のものではありません。農業の復興と魅力ある街づくりを目指して、農業再建10ヵ年計画の後、引き続きその反省に基づいて農業再建5カ年計画が立てられました。

  今回の重点目標は技術面の改善、および農業に重要な役割を果たす「土」作りでした。堆肥の製造を研究し、化学肥料に頼らず堆肥で土から改善していく。その上、土を裸にしないように、混植で養分を蓄える。こうすることで持続的な農業を目指す方向が明確に立てられ、今日にいたっています。これが今日、アグロフォレストリーの学問分野で評価を受けているトメアスーの混植システムの基盤となっています。

  もうひとつの目標は、混植の奨励によって生産されたフルーツを経済的に利用するためのジュース工場です。トメアスーが一丸となって、少量ずつではあっても生産された果物を工場へ出荷、ここで搾汁ののち冷凍し、ベレーンの市場へ出荷販売する、という計画です。現在にいたるまで、主にパッションフルーツ、アセロラや世界中でアマゾンにしかまだ育っていないアサイ、クプアスーの搾汁を中心として、計10種類以上のジュースを生産、混植から得られたフルーツで「胡椒の里」から「トロピカルフルーツの里」そして「アグロフォレストリーの里」へと変化を遂げつつ、魅力のある街づくりを目指しています。

  約1500名を数えるトメアスーの日系社会。最近では20代や30代の若者がトメアスーへ戻り、次の農業の担い手として積極的に活動しています。これからの農業はいかにあるべきか。ブラジル社会をよりよく理解し、地域住民とのコミュニケーションが十分にできるこの若い世代が先頭に立ち、非日系・日系を問わずトメアスーの農業、社会発展に力をあわせている現状に明るい未来を託しています。


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