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アカラ病院物語
トメアスーに残る唯一の移住当初の建物、通称「アグアブランカ」への思いをつづった医師・菊池文雄氏の手記より

設立当時の写真

現在のアグアブランカ







































































開設以来、四半世紀を経過したアカラ植民地の創設に先立ちて誕生し、そして植民地と盛衰を共にして今日に至った病院の歴史を古くは記録に依り、あるいは二十余年の見聞と体験を通してあれこれ記してみたいと思う。もとより詳細は小稿の能く成し得る所ではないので、その概要を年代を追ふて記し、補足的説明を添える程度に致しませう。

192928日、アカラ郡役所内に仮診療所を設置、第一回植民の入植に先立つこと7ヶ月、前進基地アカラ市街地に設けられたもので陣容は、熱帯病の権威として知られる松岡冬樹博士(国立東京大学伝染病研究所出身)を長として助手市川修二氏、看護婦高橋春氏であった。この頃、昭和4219日アカラ市街地に於いて大工石井某氏が死亡された。原因はアメーバ赤痢で本院に於ける死亡診断書第一号となる。
428日、トメアスー市街地に診療部を設く、愈々現地乗り込みである。担当者は市川氏、病院建物等未だなく、旧物品供給所の階段を利用して所謂階段学校ならぬ、階段診療所時代である。勿論当時は未だ入植者はなく先発部隊と設営の労働者のみであった。同56日、アカラ郡役所内の仮診療所を廃止。同514日、トメアスー診療所を新築合宿舎の一隅に移す。同526日、トメアスー診療所を合宿舎横のサポカイヤ樹下の掘建て小屋に移す。同65日、病院診療等竣工し、即日診療部を移す。ここに初めて病院の本拠定まる。同88日、医師、戸田善雄氏着任。同821日、診療棟内に電燈つく。
916日、朝日ザール診療所竣工す。同921日、第一病棟併設病棟竣工。同922日、日本より医師、加藤順二氏、看護婦戸谷、上村氏等着任する。此処に第一回の植民入植あり、病院の陣容も松岡、加藤、戸田の三医師に高橋、上村、戸谷の三看護婦と着々準備なる。同923日、アサヒザールの出張診療を開始す。第一回植民の入植態勢調査のため、臨時合宿の地へ出張診療を開始せるものなり。この頃より植民子女を見習い看護婦として採用し始む。同103日、屍体室、伯人病棟、電話線の架設、炊事場、浴場等と追々設備完了す。同123日、第一診察所落成、同時に診療開始、松岡博士。

1930122日、第二病棟病室竣工、別に診療棟の改築等あり。同31日、松岡博士辞職。同4日、和田馨博士着任。315日、日本より看護婦、西尾、杉山両氏着任す。この前に戸谷氏の退職帰国あり。どう328日、中央病院外科室完成す。トメアスーの中央病院なる名稱はこの頃からであろうか。此処に始めて見る。同58日、薬剤師、須藤忠氏着任す。同81日、和田博士辞任す。同18日、高橋婦長辞職す。同28日、院長に加藤順二氏任命さる。同831日、アカラ植民地衛生委員会打ち合わせ。同98日、市川修二氏辞職す。同24日、第三回移民より古川氏書記として就任する。同1022日、医師戸田善雄氏モンテ・アレグレへ赴任す。同111日、之迄無料であった会社関係伯人の薬価実費徴収を実施す。尚一般植民並びに関係伯人は無量。同122日、看護婦杉山氏辞職帰国す。

1931年
525日、初めて伯人医師エドガール・ロドリゲス氏就任す。同812日、薬剤師として菊地(文雄)就任す。爾来二十有余年終始病院に有り。今之を記しつつあって感亦無量。同914日、第二診療所開設。どう1229日、伯人医師、ドットール・ノゲーイラ氏着任。

19324月、日本より医師奥村良夫氏着任。同77日、婦長上村ミツエ氏辞職、帰国す。西尾花子氏を婦長に任命。

193318日、医師加藤順二氏辞職す。同112日、奥村医師院長に任命。同4月、婦長西尾氏辞職、帰国す。同927日、臨時雇いドット-ル・シーラ氏着任。同1123日、第二診療所に職員常駐を開始す。これまで午前中は第一診療所、午后第二診療所の診療に当てて居たものである。駐在員ドット-ル・シーラ、菊池外看護婦2名、伯人雑役夫1名。当時の勤務状態は奥村院長がトメアスー本院の入院患者回診後第一診療所出張診療、他の一斑(確かドット-ル・アミントール氏、就任時の記録はないが、多分この頃には居られたよう記憶する)が、本院の診療に従と、第二診療所は前記の如く三班に別れて居った。尚この頃には(昭和77月より)診療費実費徴収のこととなって居た。当時は意志3名、薬剤師1名、看護婦も見習者で十二・三名は居った。事務員2名と雑役夫二・三名位。この頃より風土病マラリア、アメーバ赤痢等の流行甚だしく風土病に限り薬価免除の処置を取られた。

1934429日、天皇両陛下より衛生事業へ御下賜金があった。同523日、薬剤師・須藤忠氏辞職帰国す。菊地文雄薬剤主任となる。同1030日、医師ドット-ル・ノゲーイラ氏辞職す。同1119日、婦長代理古村(四か所)ヨシ氏退職し現地養成の土屋氏婦長代理に任命さる。同1219日、奥村院長辞職す。同1220日、ドット-ル・アミントール氏病院長に任命。松崎徳治氏病院事務長となる。同1222日、再渡伯、10月は臨時雇でおった西尾花子氏再度婦長に任命さる。

193518日、ドット-ル・シーラ氏臨時であったが、再度正式任命される。同212日、モンテ・アレグレ病院閉鎖に依り看護婦大塚イツ氏転任す。同327日、西尾婦長辞職し大塚氏婦長となる。同49日、臨時雇医師ドット-ル・レヤット・オリベイーラ氏着任す。同1022日、婦長大塚辞職。婦長に任命。これで日本直来の看護婦も跡をたった。同1028日、松崎事務長辞し、芦名氏主事に任命。

1936225日、トメアスー中央病院に仮療養所を設置す。昭和8年末からここ頃にかけてマラリアの大流行有り強制予防服薬無量療養制を開くなどもっとも多難な時期であった。退耕者は相次ぎ在住者を震駭させた。黒水熱病の発生もこの年からであった。予防用のキニーネを包む為、夜間10時、11時迄も働くこともしばしばあった。同831日、ドット-ル・レヤット氏退職す。同99日、第二診療所詰にドット-ル・アブロン氏就任。

193721日、マラリア治療者に限り向こう一ヵ年支払金免除とする。同33日、橋爪会館仮診療所収容開始(731日閉鎖す)。同39日、伯人薬剤師アルベルト氏就任。同417日、ドット-ル・シーラ氏退職。同811日、ドット-ル・モアニ-ル・ピント氏就任。ドット-ルアブロン氏院長に任命さる。同98日、主事・芦名栄吉氏辞職、帰国して西尾勝利氏主事となる。

1938929日、ドット-ル・モアニ-ル氏退職。同10月、トメアスー中央病院をアグアブランカへ転院する。第一診療所は閉鎖し、トメアスーは診療所となる。アグアブランカに於ける業務開始は25日。同1110日、アルベルト氏辞職す。

194073日、ドット-ル・アブロン氏休職。同84日、臨時技師イザウラ着任す。

1941131日、ドット-ル・アブロン氏帰職。ドットーラ・イザウラ氏退職。在植者の減少に伴いこの頃は常に医師も一名となり看護婦も三・四名位であった。同88日、ドットール・アプロン氏退職。同年同月第二診療所改築。同95日、トメアスー並びに第二診療所の往診出張等に自動車運行は全く不可能となる。 第二次大戦に入り、ガソリンは入手不能にて愈々耐乏生活時代に入る。同1016日、ドットール・カルネーロ氏着任す。医師の着任はあったが、兎角ベレンなどへ出て不在勝で今はサンパウロに居る旧姓茂泉氏や筆者などが診療に当たったのはこの頃からであった。同1210日、西尾氏退職し菊地主事を兼務す。爾来事務を採る人の補充はなく一切筆者の管理下に置かれ今日に至っている。

194241日、風土病薬代徴収のとなる。同8月、植民地一切州政府の管理下に入る。この頃ドットール・カルネーロはトメアスーに往し茂泉氏又常駐のこととなる。アグアブランカは看護婦2名、トメアスーは臨時雇用人とも3人位だっただろうか。

1943524日、橋爪会館にあった病室を現在の如く診療棟に併置す。パリンチンスよりの収容者の宿舎とする為である。当植民地に置ける初めての猩熱病患者発生する。この頃ドットールカルネーロ辞職し、独人ドットール・シオリがトメアスーに勤務中であった。

1944114日、第二診療所出張に自動車運行再開さる。但しトメアスーより出張のものなので帰った後の往診は自転車あるいは馬車等である。同2月、現在南米銀行の支店長に納まって居る元アマゾニア産業の岸田氏病院勤務となり、事務担当。当時アグアブランカは筆者の外看護婦2名、トメアスーとは殆ど独立の状態に在った。記録も自然アグアブランカ中心である。同111日、此の頃現在の在住者を参考迄記してみよう。
   ブラジル人 
117家族283人。
   日本人   
126家族617人。
   独乙人   
13家族27人。
   伊太利人  
1家族4人。
   
(平賀氏調査より)

194587日、植民地初の黄熱病患者発生の為予防注射を施行する。当時の入院患者は、約半年振りに1名もないと記録する。

1947121日、カッサンバを病院車として常置さる。以来6ヶ月半筆者の愛用する所であったが、今は歯医者同様、想出の自動車である。

1948830日、3年振りに黒水熱病発生死亡す。以後犠牲者は跡を絶つ。発生はその後尚一件あり。

195074日、初期の病院以来二十有余年勤続の庄野政代氏辞職す。永年苦楽を共にした仲であり病院では筆者の先輩であった。蓋、トメアスー植民地衛生の隠れたる功労者である。特に茲に謝意を表して置きたく思う。

195231日、初めて伯人の見習い看護婦を採用す。その後約三ヶ月間は1名もなく筆者一人の奮闘時代である。同410日、病院備付の医療器は一部分を残すのみにて州衛生局に取り上げられる。同71日、1942年以来CETAで経営中の病院をトメアスー産組へ移管さる。当時の職員は筆者と伯人看護婦1名のみ、トメアスーには伯人看護夫1名勤務中にて此処は引き続きCETAの経営なり。同810日、戦後第一回の移民より見習看護婦2名雇用す。

195482日、第三回移民中より看護婦1名雇用す。日本に手の経験者なり。かくして今日に至る。目下の職員は、筆者と看護婦ライムンド・ロザリオ・ペレイラ、石塚ミツエ、菊池美子、菅野邦子の4名である。

前稿に書き落ちしたが、
19531月、第二診療所を閉鎖することになった。
 植民地の歴史に微力ながらもその義務を続けてきた二十五年、或る時期は盛大に、或る時期はホソボソと辛うじて存在を続けた衛生機関も植民地近来の在住人口の増加に伴い益々その必要性を痛感させられる折から目下病院建物の新築、諸々の設備と医師招聘の進渉中の処であるが一日も早く実現されんことを祈るものである。設備陣容は、完璧にしかして仕事は余りなくという処が理想であろう。
 今日此処に輝かしい二十五周年を盛大に迎える事の出来たこの感激
は犠牲者として今日までの死亡診断書の発行数663名これ等の尊とき霊の冥福を祈りつつ本稿をく。

19541110
菊地 文雄





注)本稿はトメアスーの衛生面で多大な貢献をなさった菊地文雄氏がトメアスー移住25周年に際しトメアスー産業組合(現在のトメアスー総合農業協同組合:CAMTA)広報に寄稿されたものです。70年代にパラ州立病院がトメアスーで開設されると共にこのアグアブランカは閉鎖となり、氏の離職となりました。1996年8月15日永眠。