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トメアスの声

トメアスーの日系社会/アマゾンでの農業経営
過去日本で奨励されたブラジル移住。色々な苦難を乗り越え、アマゾンとの「共生」を求める人々。厳しくもやさしいアマゾンを愛し、環境保護など簡単に口にはできない現場の声。共生を実践するアマゾンの人々を垣間見ることができます。

自然との調和がなにより大事1957年移住:坂口 陞
1世から2世へとつなげる農業・変換する農業1960年移住:鈴木 耕治/長男:エルネスト
アマゾンに適した農業を模索する1973年移住:高松 寿彦
1961年移住:新井 範明 
まだまだ作成中です



 坂口 陞

ピメンタをやらねば百姓にあらず
  移住してきたのは1957年、23歳の時。アマゾンへ来たのはゴムを勉強したいと思ったからなんです。「ゴム栽培を学んで4年経ったら帰ってくる」と家族に言って出てきたんだけれど、その頃トメアスーでは「ピメンタ(胡椒)をやらないのは百姓にあらず」なんて言われていて、私もしばらくはピメンタ専業でやっていました。ゴムのことを勉強するようになったのは、着いてから実に25年が経ってからでしたね。
  69年はものすごくピメンタの病気が出た年で、私の農場もたった2ヶ月の間に全部枯れてしまった。そんなときにトメアス−農業振興組合(現CAMTA:トメアスー総合農業共同組合)の理事になって、自分の農場どころではなかったね。何かピメンタに替わる作物を選定しなければならず、とりあえずカカオをやってみようと提案。すぐには受け入れられませんでしたけど、74年に水害(ここの場合は雨量があまりにも多くて水が捌け切れずに、地面から水が沸きあがってくるんだけど)があった生で、ピメンタがさらに被害を受けた。そして、仕方なくみんながカカオをはじめたというわけです。
  私も自分の農地に、カカオの苗3千本を植えたのですが、その後2年の間に、トメアスーでは百万本のカカオがあっという間に植えられました。すると、なんと75年にカカオの値段が暴落。収穫してから出荷までの1ヶ月に、国際相場が2倍、3倍、どんどんあがっていったもんだから、それまでにピメンタの被害でたまっていた借金を、きれいに返してしまった。これまでの人生で、純粋に「儲かった」という思いをしたのはあの時一度きりです。笑いながら借金が返せたような好景気は長くは続かなかったし、80年代にはもう完全にだめになっていましたからね。

ひたすら植林
  ここに暮らして自然の状態を見ていると、やはり植物があって初めて土ができる、ということがわかる。日本式の考えでは、土は農業者が作るものだということになるかも知れないけれど、ここでは強烈な太陽や高温多湿な気候がそれを許さないんです。結局、植物を利用して日陰を作り、有機質を土に還元していくために気がなければだめなんだという結論に到達しました。カカオを植えようと提唱したのも、その木が自分で影をつくることができると考えたからなんです。
  ピメンタを植えていた頃、ニワトリなんてその辺に放しておけば何もしなくても増えるということだったけれど、50羽くらいまで植えると、そこから先はぜんぜん増えていかない。それが、カカオを植えて日陰ができ始めると、驚くほど増えたんです。木陰に落ち葉があって、その下に昆虫がたくさん生息している。そのおかげでニワトリがどんどん増えたというわけだったんですよ。木があって陰があって、落ち葉や落ち枝がどんどん土に還元されていく。土には食物がいなければ何にもならないんだということに、何年もかかってようやく気づいたわけです。
  それからは、「耕地として裸にしていた自分の土地に何でも言いからどんどん木を植えてやろう」と、毎年一万本を植林していきました。70年から80年にかけてはずっとそればかりをやってきましたね。

地球を守るマント
  土地は裸にしたら絶対だめ。食物は地球を守っているマントなんです。開拓というのは、邪魔になるものをよけてしまい、人間の利益になるものだけを植えて収益をあげていくことだった。でもそのシステムは、ここでは長続きしないんですね。逆に、自分で陰を作り土地を守りながら、その上で人間にとって経済効果のあるものをある程度だけ与えてくれるというのが樹木作物です。大きな収益は望めません。でもこのやり方で食べるのに困ったことはない。楽な暮らしはしていないけれど、必要な分くらいは十分にまかなえる。のんびりした農業です。
  勉強した農業技術の知恵を働かせて私が良かれと思ってやったことは何一つ残っていない。それは、「儲けよう」と思ってやっていることに対する天罰か、作物を奴隷化し利益の為に働かせようとしたってそうはいかない、ということなのかも知れない。
  病害、虫害というけれど、虫一匹だって意味もなく暮らしているわけじゃない。作物を荒らしたら害虫だといわれるけれど、自然界ではものすごい働きをしている。なのに、人間が自然界を破壊するからバランスをくずしてしまうんです。

仏教の教え
  自然に対する考え方を、改めさせられたことがあります。以前サンパウロのお寺で修行をしていて、総長のお話の中に「自然法爾(じねんほうに)」という言葉があった。法爾というのは仏の教えということですが、、そこではっとしたのが、「自然(じねん)」という言葉です。これまでは、周りの目に見える社会、あらゆるものを含めたものが「自然(しぜん)」だと理解してわかったつもりになっていた。でも、そうではないことに気づきました。人間の力では及ばないもの、自ずと然らしめるもの、すなわち「自然(じねん)」。これが人間の努力の後ろには、ぴったりとくっついているんじゃないかと。
  その後調べたところ、「しぜん」という読み方は、明治以降に英語の「Nature」を訳すために作られた言葉なんですね。それ以前はどの本を読んでも「じねん」と書いてある。日本語には仏教用語からきている言葉がずいぶんたくさんありますけれど、これもそのひとつだったんです。
  人間が見える範囲、征服できる範囲の「自然(しぜん)」だと思っているから、自然保護だの環境保護だのといっているけれど、実は大変おこがましい話。「自然(じねん)」という考え方をすれば、むしろ守られているのは人間のほうなんです。「自ずと然らしめるもの」という本来の意味をわかっていれば、木を切りすぎれば人類の破滅につながる事くらい自ずとわかるはず。理屈の問題ではないんですよ。私も遅ばせながら、ようやくそういうことに少しずつ気づきはじめたところです。かつては、「これだけの木を植えて育てた」という若さゆえの意気込みがあったけれど、裸にしてしまった土地を、何十年かかかって元に戻しただけのことなんですね。何のことはない。自分が裸にされて生かしてもらっているだけなんですよ。そして、今までのようなそろばんのパチパチはじくだけの考え方を捨てると、あらゆるものが愛しくなってきますね。

われらトメアス- 一家
  いろんな生き方があるけれど、ここトメアスーはみんなが大きな家族みたいなんですよ。夫婦だってケンカをするんだし、隣近所と馬が合わないこともあるかもしれないけれど、何だかんだ言っても最後には村としてまとまっている。去年の移住70周年記念祭典でも、やる前はあーでもないこーでもないと、もう大変だったんです。それがいざ直前となると、みんな必死でしたね。日本の今の社会のような、「隣は何をする人ぞ」という風潮はまだここにはない。隣の家の金庫の中身まで知っているくらいですからね。(笑)

海外移住 2000年11月号掲載


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鈴木 耕治/エルネスト

父:耕治


海外へのあこがれ
  中学校2年のときだったかな、僕のおじさんが戦後第1回移住者としてトメアスーに行く時に、横浜に見送りに行ったんです。大きい船に乗って水平線を見渡したとき、「外国に行ってみたい」と思った。そのときに海外に対するあこがれが芽生えたんじゃないかな。もし見送りに行かなかったら、そのまま日本にいただろうね。
  高校を卒業してすぐ着たかったんだけど、農業経験がなかったから2年間だけ福島県の農事試験場で勉強させてもらって、1969年、20歳の時にようやく移住できた。トメアスーに着てみて、びっくりしましたよ。原始林の真っ只中だと思ったら、何でもあるんだ。僕の育った町より文化活動も盛んで、野球チームも7,8チームはあった。
  その後、たくさんの人が開拓の途中であきらめてトメアスーから出て行ったけど、僕はここに残った。今考えると、他に行ってやりたいという気持ちもあったけど、同じところで百姓しないと、本当の豊かさは得られないという気がしたからじゃないかな。最初にきた土地に愛着もあったし、ここでいい人たちに恵まれたことも大きいよね。

難しいからこそおもしろい
  最近、EM(Effective Microorganisms=有用微生物群)菌というのを使っているんだけれど、これと最初に出会ったのは、文化協会の専務をやっていた頃。鹿児島県に視察に言ったときに、すばらしいお茶を作っている人がいたんですよ。聞いたら牛糞でつくった堆肥にEM菌を混ぜて有機栽培をしているという。帰ってきて、ピメンタにもいいはずだと、色々本を取り寄せてやり始めました。ピメンタは初期は良いんだけど、今年あたりは結構かれてきたから、EM菌だけでは完全な病害対策にはならないみたい。
  何十年もやっているのにピメンタというものはまだ難しい。でも、だからこそおもしろいんだ。それに、ピメンタ作りはほとんど無農薬だから体にもいいんだよ。

企業的発想を捨てる
  原生林や再生林を切って畑にすると、2,3年は何を植えてもよく育つんだけど、それを過ぎると必ずだめになる。だから大儲けしている人はたいてい土地をどんどん変えるんですよ。だめになったら別のところに移って、そこがだめになったらまた別のところ。企業的発想の農場で大規模に広げて、土地を略奪して富を得るのが本当の農業の姿なのか、と最近は考えます。若いときは自分もそんな感じで、あっちをやったりこっちをやったりしたんだけど、最終的にはやはり何か間違っているんじゃないかという気がしてね。人それぞれに考え方があるから、どこに自分のフィロソフィーを持って進むかだと思いますけれどね。
  でも、色々考えると、地球の有限な土地を自分の金儲けの為に滅茶苦茶にして使い捨てるというのは間違いだろうと思うんだね。自分が満足できる、生活できる範囲でやるのが本当の農業でないかと思う。今後はピメンタを小規模に植えて、どうしたら長持ちするかを研究しながらやってみたいと思っています。
べレーンに出たあと日本に行った息子が、最終的にトメアスーに戻ってきてくれたのはやっぱりうれしいよ。嫁さんも連れてきたから、なおさらだね。


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息子:エルネスト


おがくずを堆肥に利用
  トメアスーには製材所が多いですから、そこで出るおが屑を資材として肥料に利用できないかなと思い、日本で勉強させてもらいました。色々な作物に挑戦してみたくてずいぶん迷いましたが、今はオイルパーム(油やし)中心にやっています。その他はピメンタを少しと、植林も。
  オイルパームは雨量、土壌条件などいろいろな面でアマゾンに一番適していると思います。永年作物なので、いったん植えれば20〜25年くらい収穫できますし。でも、収穫できるようになるまでに3,4年はかかるので、それまでの収入がない。今のところは、友人と共同でやっている苗木の会社で収入を得ています。
  トメアスーは昨年、日本人移住70周年を迎えました。日本人は確かに木を切って開拓をしてきましたが、50〜60年代にピメンタの病気が激しくなって以降、環境を考えた農業のやり方を探るようになり、できるだけ同じ場所で植林しながら農業をしています。もちろん、生活をしていかなければいけないですから、多少の伐採は必要だと思いますけれど。
  たとえば先進国の人が実際ここにすんで、木を一本でも植えて育ててもらえば、何か変わるかも知れないと思いますね。僕たちは環境については十分心配していますし、実際に行動している、あるいはし始めているつもりです。関心のある人たちを集めて、森林の永久保存地を作ろうという計画もあります。森を守ることを考えないと将来は難しいですからね。ただ、一番大切なのは、まず生活していかなければいけないということ。その為の多少の犠牲はあると思うんです。
  散々木材を消費してきた先進国の人たちが、今ごろになって伐採を止めろとか森林を切るなという。言うことは誰でもできるけれど、実際に木を一本でも植えて育てたことがあるかって、そういう質問をしたくなります。それで生活できるか、とね。
  できるだけ自然に近い形で農業をするようにと、混植を進めたり、堆肥は地元にあるおがくず、ジュースの絞りカスなど利用できれば、コスト的にも環境にもすごくいい。それを実際トメアスーでは始めています。

自分なりに父を超えたい
  これからは、いかに生産コストを下げるかを考えていくことが必要です。わざわざ樹齢何百年という木を倒して、それで支柱を作ってピメンタを植えるという従来のやり方を、僕は絶対したくないと思っています。確かに生産性を見ればそのほうが効率が良いかもしれない。でも、木をできるだけ切らないようにして、今は父が作ったゴム園の中でピメンタをはじめています。すでに木が立っているのだから支柱の経費もかからないし、手間もない。これなら、木を倒さないですむし、コスト的にも安くなります。この先ピメンタの値段が下がっても、生産コストが低ければやっていけるのではないかという考えです。
  ゆくゆくは父の農地も継いでいくつもりですが、今のところは苗木の会社経営と両立しながら自分の農地で勉強しています。互いのことに口を出すことはほとんどありませんが、堆肥のことやピメンタの手入れなどは、父を見習いながらやっています。
  父は日本からきて自分でがんばってやってきましたから、それを息子だからって、跡を継いでとのままというふうにはしたくない。父から土地を譲り受けるのに借金をしていて、これからがんばって払っていくつもりです。

トメアスーを魅力的な町に
  トメアスーはもともと農業組合を中心に発展してきました。道路のことや、その他色々な面で考えれば、組合で協力し合うのは大事なことだと思います。ただ、経営の仕方や組織としてのあり方など、徐々に変えていかなければ2世、3世はついていけないのではないかと思うこともあります。そのために今、2世のグループをつくって、月に一回は集まるようにしています。みんなでこれからのトメアスーを考えていこう、ということでね。将来を考えるにはまず過去、歴史を勉強しなければいけない。だから年配の方を招いて話してもらったりして、それを記録に残したいと思っています。
  アマゾンの日系コロニアは、ちょうど1世と2世の入れ替わりの時期なんです。ですから、もっと話し合い、お互いに尊敬しながら良いところは認めてやっていきたいです。そして、トメアスー出身の人にはできるだけトメアスーに帰ってきてほしい。そのためにはトメアスーを魅力的な町にする環境作りが必要で、それが僕たちの大きな仕事だと思っています。

海外移住 2000年11月号掲載


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高松 寿彦

ある本との出会い

  私が外国での農業生活に強い憧れを持ち始めたのは南北アメリカ、スウェーデン、デンマーク、ドイツ、そしてオーストラリア等世界の先進農業国での実習生活について農業改良普及員がしたためたレポート「海外農業実習記」を読んだのがきっかけでした。台湾に生まれ、戦後の幼少期に北海道から九州までの産業市街地を父親について転々と渡り歩き、小学校五年生の頃にようやく祖父母のすむ長崎の片田舎にたどり着いたとき、そこでの暮らしが子供心になんとも落ち着いてすばらしく感じられたのを覚えています。五回目の転校で6年生の一年間を鹿児島で過ごした後再び長崎へ戻り、その後しばらくたった中学2年生の頃、学校帰りにたまたま本屋で手に取ったのがこの本でした。単なる実習記であったにもかかわらず、その中に書かれた外国の大地と緑、そして人々の暮らし振りが生命(いのち)を暖かく包んでくれるような安堵感を覚えさせ、同時に海外への強いロマンを呼び起こしてくれました。
  大学では学業そっちのけで海外移住研究のクラブ活動に打ち込み、全国学生海外移住連盟からの派遣実習生としてアマゾンへ赴きました。この研修生活を通じてアマゾンの暮らしがますます気に入り、卒業してすぐ移住しようと決心していた矢先、父親が病に倒れたのです。長男としてその世話をするため、日本国内で教師や県の職員として働きました。そうして父親の様子を見ながら、移住のチャンスをうかがっていたのです。そうこうするうちに結婚をし、父も回復し、両親にとっては孫なる長女も見せたし、もう許してもらえるだろうと移住に踏み切ったのが、少年時代に海外での暮らしに憧れを持ち始めてから15年も経った1973年、29歳のときでした。

時期はずれのトメアスー移住

  初めは既成のピメンタ園を買って暫くベレーン郊外に住みましたが、北伯随一の日系移住地・トメアスーが進めていた第三移住地造成の構想に興味を持っていました。トメアスー農協からカカオの育苗をやってくれないかとの誘いがあったのはちょうどその頃、それでトメアスーにすむことになりました。「みんなが逃げ出す頃にやってくるなんておまえはよほど物好きだよ」といわれたりしましたが、それもそのはず、当時トメアスーの唯一の商品作物だったピメンタの病害が猛威を振るっていたため、、無病地を目指して去っていく人が後をたたなかったのです。
  そんな移住地の将来が危惧された状況のもとで、トメアスー農協はピメンタに代わる第二の作物としてカカオの植栽を奨励していました。その後、私は農業技師を務めるようになりましたが、その6年間で約150万本のカカオ苗を育てました。また同じ頃にカカオの植栽と平行して胡椒廃園に残された支柱を利用したパッションフルーツの栽培も盛んになっていました。
  私は第三トメアスー移住地に農協勤めの傍らピメンタを植えていましたが、そのうち規模が大きくなって両立できなくなりました。1980年に農協職員を辞めて、週日は山に入って週末に帰宅するといった生活を3,4年続けましたが、この間のピメンタの安値には大いに苦しみました。市街地近くに購入し現在の本農場となった耕地にパッションフルーツやパパイヤを植えたりしなんとか不況をしのぎました。一方組合もピメンタ、カカオ、パッションフルーツなどの主要作物の安値が長期化したため財政が悪化、1983年にはついに莫大な負債を抱えて破綻の状態に陥りました。翌年、組合執行部の交代が行われましたが、そこで私も新しい理事として選ばれ、組合再建十ヵ年計画を推進していくための一員として勤めることになりました。
  まもなく、ピメンタの値段が大高騰し、本農場を充実させるための資金を作ることができました。しかし、第三移住地に植え付けた胡椒の樹は早7年にして壊滅し、ほかの移住者もほとんどが撤退、私も耕地を処分し本農場にだけ力を入れるようになったのです。

単一栽培は恐ろしい・有機栽培と森林農業

  ピメンタの大高騰が瞬く間に暴落に転じてしまったこともありましたが、何よりも単一栽培の恐ろしさを身をもって経験した私たちは、その後ジュース工場が建設されたこともあって、さらにクプアスー、アセロラ等の新しい果樹作物を導入しながら複合栽培による営農の安定化を目指しました。これらの果樹作物の多くは、カカオ増殖の際に行われたように、ピメンタやパッションフルーツ等の間に混植されて育てられました。
  このように当初混作は単に二種類の作物だけの組み合わせであったが、その後同じ畑で混作される作物の種類は次第に増えてきた。この傾向をもたらした背景には環境に配慮した持続可能な農業を求める私たちの強い意識が反映されてきたことがあるかも知れませんが、やがて自然の生態や植生の移り変わりの姿を真似た作物の組み合わせも考えるようになりました。 たとえば、寿命や収穫期限の異なる様々な種類の作物を同一場所に植え付けて育成、収穫していき、そこに植えられた有用木を育て、最後に伐採したあとまた初めから繰り返していくという風に、恐らくそのサイクルは数十年単位もしくはそれ以上になるかも知れませんが農業と林業とを合わせた営みを持続的に行っていくシステム、いわゆるアグロフォレストリー(森林農業)が次第に本格化しつつあります。しかもこの過程の中で、緑肥や被覆作物を植えたり、堆肥やぼかし肥、粉炭等を用いた有機農法がアグロフォレストリーと融合しつつあり、今日トメアスーの農産物は益々安全かつナチュラルな魅力を備えたものになっています。

農業の営みを超えて
  私も3年前から全く農薬・化学肥料を使わずに農業を営んでいます。まだ公的認証こそ受けていませんがすべてが完全な有機農産物ですし、アグロフォレストリーの実践研究にも一層力を入れています。今では農協その他の役職からも一切身を引き、一日のほとんどを畑で過ごすことができるようになりましたが、恐らく作物の組み合わせやその管理技術などで決まるであろう畑の生産性や持続性について農場の様々な問題点に気づかされています。また、良かれと考えて始めてみたものの、その結果が出るには数年、もしくは数十年かかると思われる試みもありますが、まもなく学校を終えて帰ってくる息子が仕事を引き継ぎ、さらに農場を改善・発展させてくれることを楽しみにしています。今後は少々農場周辺の自然の森にも入り、アグロフォレストリーの実践に関する植生の観察等も行っていきたいと考えています。
  なお、アグロフォレストリーはこれまでの農業とくらべて環境や人に対して格段にやさしい農業には違いないが、植生変移の姿を模しただけの営みにはやはり限界があります。したがって、自然生態の持つ主の多様性や大気・大地・水資源等を守るための環境的価値を考えると、やはり周りには相当分の自然の森を残しておくことを怠ってはならないでしょう。
  これからも、私たちは自然と人の営みを調和させて生きていくための知恵を磨きながら、トメアスーを実り豊かな緑に囲まれた理想郷へと一歩一歩近づけていきたいものです。


2001年11月23日寄稿

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1937年2月8日北海道旭川市に生まれる。3歳の時両親、姉とともに南米ペルー共和国へわたる。父亀吉文部省派遣教師として赴任。先任地で弟生まれる。1941年第二次世界大戦勃発、日米開戦に伴い北米テキサス州へ捕虜として収容される。在留2年半、第二交換船グリップスフォルム号にてニューヨークを出向、インドのゴア港にて捕虜交換、日本軍へ渡る。シンガポール(昭南市)下船命令。昭南特別市日本国民小学校へ入学。終戦直前シンガポール生まれの妹を加え、氷川丸で生還引揚。舞鶴港上陸。父は軍省幹部勤務終戦後引揚帰国。終戦を旭川で迎える。郷里で小・中・高校卒業、1955年上智大学外国語学部へ入学。海外移住を目指し準備のため、1959年、同大学中退、北海道江別市町村農場及び旭川市松岡木材産業研究室にて研修。1961年結婚。同年12月30日横浜港を出向アメリカ丸にてブラジルへ移住。1962年2月7日トメアスー植民地入植。「日伯共同農場支配人として日本側須磨和章氏の代理人として赴任、現地側沢田毅氏、長野敬士氏とともに農場経営、主作物胡椒。 移住3年目にして出資者永野敬士氏病死、須磨和章氏方肺切除のため共同農場を解散、現住地への独立農業、胡椒栽培、主作物病害発生により分農場増設、第二トメアスー、マラカナ、及び第三トメアスー・アイウアスーへ胡椒を植えるが病害に付きまとわれ、現移住地に定着。分農場は全て処分、熱帯果樹、永年作物へ移行、現在は森林農業、有機農業を目指す。
両親亀吉、ウメ子は1972〜1977年の5年間、トメアスー文化協会招聘により定年退職後同協会日本語学校長として奉職帰国、妻慶子1982年よりブレウ地区へ「ブレウ日本語学校分校」を設置1990年十字路本校と統合。私は1974年文化協会理事発就任以来2000年3月まで理事。終年会長及びトメアスー入植70周年祭典実行委員長を最後に退任。所有地の一角、原生林の保護及び環境問題の重要性を感じアマゾン熱帯雨林の持続的森林農業を目指している(現保全地域は再生林及び原生林を含む)
新井 範明

私の移住私観
幼少の頃より南米ペルー北米、シンガポールなど8年間の海外生活と第二世界大戦の体験、特に終戦直前のシンガポールか舞鶴港帰国の時の「戦火の海」「燃える日本列島と貧困の惨めさ」の印象が子供心にも離れず、中、高校生の時から再び海外での生活を画いていました。大学入学、上京とともに学内に海外移住研究会を学友と創設、日本学生海外移住連盟(学移連)に加盟、全国的な活動に参加、元ペルー公使坂本龍起氏、カトリック移住協議会理事長に師事、東京農大拓殖学部教授杉野忠雄、神屋信一氏(百姓の書いたブラジル動物記、アリアンサ票原自然科学研究所所属)を招き学内で講演、神屋信一氏とは農業高校の二、三男対策、移住への啓蒙運動遊説、宝町海協連(当時の海外協会連合会)所在の学移連事務所を中心に在外日系人アンケート調査へ協力、「国内開拓と海外移住」で朝日新聞論説掲載されました。

移住史における満州開拓、東南アジア、ハワイ、北米、中南米などの移住政策をとおして私の移住地をブラジルと決めました。理由は「ブラジルは過去に大きな戦争亡き平和な国にして豊かな大自然に恵まれ、多民族の国家形成、民族間の融合、同化の可能な理想の国」と認めたことにあります。

特にペルー国の生活体験(父の語りから)同国の悲惨な移民史の過去と比較、ブラジルを選定しました。また移民は第一次産業から民族的信用をつけ、現地の国民と共に世代の進展に伴い第二次、第三次産業へと発展、摩擦、競合することなく受け入れられるとの理論から自ら農業の道を選び、農業者としての体験研修等を取得、農業者として移住に踏み切りました。学移連OB、今村邦夫氏(祖父は国会議員)の紹介で外交官、須磨弥吉郎氏子息須磨和章(移住監督官、海外移住助成会会長と出会い、和章氏の代理人として「日伯共同農場」の支配人として現住所のトメアスーへ移住したのです。今村・須磨両氏共千葉三郎代議士とは懇親関係にあり、胡椒(栽培)の産みの親、臼井牧之助氏への紹介を通して現地日系移住地指導者平賀練吉、清子ご夫妻と出会い、トメアスーを永住の地と決めました。

断ち切れぬ二つの祖国移民の日    伯石

40年の軌跡から

環境の変化
トメアスー移住地は今72周年を迎えています。前半期の35年間は陸路のない川船による静かな時代でした。私が入植した40年前のベレン、トメアスー間は一眸原始林に覆われた「緑の海」そのものでした。1970年代ベレーン〜ブラジリアへの産業道路の開通、1980年代のカラジャスの鉄鉱石、ツクルイの電源など総合開発は南から大牧場や製材業者の流入を誘導、急速に開発が進み、原始林はまたたく間に姿を消してしまいました。有用材を失った歯抜けの森と荒廃地が目立ち、木材のなくなった地帯から製材業者は更なる原始林を求め移動しつつあるのです。

農業の変化
野菜、陸稲、カカオなど中心とした初期開拓時代の農業は胡椒栽培の確立と混合農業組合(編集注;現在のトメアスー総合農業共同組合)の組織力によって「黒ダイヤ」と言われた繁栄の時代を迎えたのですが、単一栽培の人工的障害ともいえるフザリウム菌による病害発生のためその対策として無病地帯への栽培移動が起こり、ムジュー、アバイテツーバ、ベレーン、カスタニャール近郊への転住や分農場増設として、第三トメアスーアイウアスー及び及び千葉三郎植民地へと拡散していきました。にも関わらず胡椒の病害から脱出することが出来ず、胡椒以外の作物の複合的栽培が考えられ、JICA(編集注;日本国際協力事業団)「アマゾ二ア熱帯農業総合研究所」の指導と、トメアスー総合農業共同組合「営農再建長期10ヵ年計画」の実施によって定着型持続的農業への新分野が改善されました。10ヵ年再建計画は短期、中期、長期永年性作物の組み合わせによって経済の再建を見事に乗り越え、農協は農産加工として、ジュース産業を樹立、COERTA(農村電化電話組合)による増資協力によって、新第二工場が落成新製品開発輸出などの発展が期待されています。

森林農業と社会造林
アマゾンの森林で最も開発が進んでいる地域としてパラー州、マットグロッソ州があげられています。トメアスー移住地もそれにもれず、原始林の殆どが製材、農牧業者によって失われ、今や荒廃化が進んでいます。 1989年のアメリカ環境保護庁の発表によれば、毎年1700万ヘクタールの速さで熱帯雨林の破壊が進めば2075年には全ての熱帯雨林が地球上から消失されるだろうと報告されています。

このような時代に森や水を保全しながら最も自然の環境に近い持続的農業として、「森林農業」が注目を浴びています。すでにトメアスー日系農家は「森林農業」を実践しており、その成果が評価されております。実例として熱帯果樹と有用樹を含む混植林の組み合わせによって、落葉や有機質、動植物、バクテリアによって腐食分解が行われ、蘇生、再生する能力、すなわち持続性を備えております。

今後の課題は森林農業の経済性を高める工夫が必要と思われます。混植林を、長期営農計画の中に「造林」として取り入れ、地域の農業者が共通の「社会造林」として特産地形成化することによって、新産業が芽生え、地域社会の活性化、発展につながるものと考えます。「海外林業コンサルタンツ協会」(編集注:在日本の団体です)の助言によれば、日系農家の数々の植林の実態から充分に以下の可能性があると指摘されております。

1.森林農業と社会造林の組み合わせによって、食品加工や木材工業など様々な新産業が芽生えます。
2.長期営農計画は、環境庁の認証の下に有利な流通ルートにのせて、経済性効果を高めます。
3.持続的農業は、良い農業環境を作り出し、熱帯雨林の破壊的開発を弱める効果があると考えます。

移住の原点トメアスー移住地は森林農業と社会造林の組み合わせによって、豊かな緑と水を永遠に守る農業を目指していきたいものです。

森林保全と森林公園
残された原始林、有用材を失った歯抜けの森、再生林など、森の形態をとどめている地帯や、特に水源となっている河川敷の森などの保全はこれからの生態系や良い環境を維持するために保護が不可欠です。森と水との関係など、環境教育の場を通して、自然のすばらしさを知っていただく為に、私の所有地の一部を永久保存して、森林公園(仮称)としてみたいと考えております。
昨年の2001年5月27日、森を愛する仲間たちへその目的のために公開いたしました。又CEFLAM(アマゾニア森林文化研究会)の協力も要請いたしております。ブラジルの植物学者・橋本悟郎先生も以前、この森林公園予定地を歩かれて、アマゾンの植物を採集されております。先生が植物の分布を調査し測量されたサンパウロ市のいくつかの公園は「VERDE」という一冊の本にまとめられておりますが、出来れば専門家のお力をお借りして「VERDE」をモデルにした植物の分布図を完成させたいと願っております。それが森林学の研究や種子などの採取によって、植林事業へ協力でき、いくらかでもお役にたてればと願っております。予定地内には数多くの銘木巨木があり、美しい小川と谷など原始林の景観を楽しむことが出来ます。ご希望の方には案内させていただきます。残された一握りの自然を、皆様のご協力によって、保全していきたいものです。

連絡場所
NORIAKI ARAI
RAMAUDE ANAUERA BOM JARDIM
BREU DE TOME−ACU
PARA BRASIL
TEL:+55 91 3734-7105

十字路から南西へ13km
編集注:同氏はこの保全地域「森林公園」の専門家による生態調査を希望しておいでです。ご興味をお持ちの方は是非ご連絡ください。

2002年7月25日寄稿
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